【恥】ヤンキーだったときに勘違いをしていた話

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人生で一番グレていたときの話



筆者が中学3年生のとき、親に愛されていないと思っていた私は、人間関係がうまく行かず、「人間は皆クソ」だと思っていました。そのせいで登校拒否を繰り返し、制服のまま、街を徘徊するようになりました。「このままでは中学生で留年するぞ」と担任に脅された私は「すこやか学級」という、登校拒否児童が通う出席日数を稼ぐためだけに行く教室に通うようになりました。そこにいる生徒たちは、皆どこか闇を抱えたような目つきと、悲しい背中を背負っていました。「私たちは同じ穴のムジナ」という思いから馴れ合うこともありましたが、決して腹の底は見せませんでした。皆、「人間は皆クソ」と思っているからここにいるからです。私は当時流行っていたルーズソックスを履き、髪を赤く染め、針金で耳に穴を開けてピアスをしました。自傷行為の跡が痛々しく残り、冬でもリストバンドが腕から外せませんでした。将来なんてどうでも良い。と思いながら、親に連れられて嫌々、高校見学に行く自分にヘドが出ました。結局、私はすべてにおいて中途半端なのだと実感しました。高校見学で見かけた同級生が私を見て怯えていました。その後、影で私は、赤髪の○○(本名)と呼ばれ恐れられるようになりました。

ヤンキーがやった悪巧み


私が普通のヤンキーと違うところは、誰とも群れなかったというところでした。一般のヤンキーは、あんなにグレているのに、仲間を大切にするのを羨ましく思っていました。親よりダチといる方が楽しい。彼らには居場所があり、私にはない。ただ、親を憎み、自分が大嫌いでした。私がやったヤンキーらしいことと言えば、バイクを乗り回していたくらいでしょうか。それも無免許ではなく、16歳になって免許をとって、夜中に誰もいない道路を逆走して、生きているスリルを味わうくらいで、ちっぽけな世界で社会に復讐している気がしていました。

横断歩道のおばあちゃん


私は、高校生になっても心がやさぐれていました。Coccoの「私なんか死ねばいいと思ってた。だけどどこかで私だけが生き残ることだけを信じてきた」というフレーズを繰り返して歌っていました。誰に聞こえていようが、お構い無く、泣きながら、大声で。そんなとき、横断歩道を渡るおばあちゃんの姿が目に入りました。信号の青が点滅しているのに、まだ横断歩道の真ん中あたり。クラクションを鳴らされて焦っているのに、思うように動かない不自由な足。私は駆け寄って「大丈夫ですか?」と声をかけました。クラクションの嵐も気にせず、渡りきると、なんだかやりきった感が出ました。「ありがとうございます」と何度もお礼を言われて、こんなクズな私でも、誰かの役に立てるんだと、また、涙が出ました。もう少しだけ、生きてみようと思いました。

あとがき


反抗期というのはおもしろいもので、だいたい中学生~高校生の多感な時期に発症します。親を無視するのにご飯は食べるし、親が働いたお金で生活するという矛盾が、今思い返すとなんとも恥ずかしい。しかしその行為が、犯罪に走らないための然るべき行動だったと思うと、なくてはならなかったものだったのだと思います。今、現在進行形で反抗期を迎えている親御さんがこの記事を見ていたら、なんとかしようとせず、しばらく傍観してみてはいかがでしょうか。気が済めば、また筆者のように元のように、クソ真面目に戻るかもしれません。

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祭(まつり)
ライター

祭(まつり)

ワンピースのルフィ、H×Hのゴン、クレヨンしんちゃん、声優の高山みなみさんと同じ5月5日生まれ。おうし座、亥年、男の子の日生まれと待望の男子かと思われたが、生まれたのは病弱な女子だった。生粋の左利き。動物占いは群れを好まない「狼」。ショップ店員に紫色が異様に似合うと過去5回言われたが、本人は深海の蒼色好き。

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