【回想記】3月11日は何をしていたか?②

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(①からの続き)
しかし、どうも電車も止まってて、身動きがとれないっぽいことが分かったので、夕方になってから大学の南校舎へ移動して、中教室で席をとって時間を潰していました。

そこには、ゼミの先輩と後輩、また地方から就活に来ていたスーツの子が一緒にいました。

校舎の入口には非常時用の乾パンと水の入った缶が平積みされていて、なんだか修学旅行みたいなわくわくした気分と、それにしても事態が大げさじゃないか、、と思っていました。

原発のことも、津波のことも、その時はまだ何も知らず、「ちょっと大きい地震が起きて、たまたま帰れなくなっただけのこと」だと思っていたからです。

しかし、いつまで経っても、余震がやまない。余震のたびに校舎内で緊急のサイレンが鳴り、気持ちが落ち着きませんでした。そのうち夜になっていきました。

コンビニに行ってもパン類は全部無くなっていて、ポップコーンがかろうじて残っていました。
しょうがないので、たまたま高校の時かろうじて知り合いだった子と夕飯を中華料理屋で食べましたが、隣では、女子会が行われていて、こんな事態でも女子はつえ〜なあ〜って思ったのを覚えています。。

満喫が空いてたらと思って覗きにいきましたが、店員さんが、エレベーターが開いた入口にたっていて、お断りされました。

同じく満喫に行こうとしていたサラリーマンに、「もう満杯で入れないですよ」と教えたら、ありがとう、といってグーサインして去っていきました。

親にも連絡がつながりません。私はまだガラケーで、メールをうっても送信失敗になり続けていました。
当時、Twitter、Facebook、mixiなどのSNSでインターネットを経由した情報連絡が非常に早く進みました。
Viberなど、電話回線を経由しない音声アプリがつながり、電話やメール以外の方法でお互いにやりとりをしていました。

また、地震の状況について、先輩のつないでいたパソコンで徐々に分かってきました。とりあえず、今までの中でも想像を越えるまずい事態になっていることが分かりました。(あのとき、沢山デマも流れてて、いかに自分で正しい情報を得ることが大事か考えさせられましたね。。

(続く)
石井裕×渡邉英徳 緊急対談──「3.11」の情報と体験をどう未来記憶化するか #3.11(CODEIQ Magazine 2014/3/11)
LINE、東日本大震災の復興支援スタンプ「3.11こどもスタンプ」を販売開始(ASCII.jp 2014/3/12)
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為本 晃弘
ライター

為本 晃弘

社会人を2年で辞め、現在は専門学校で勉強中。毎日見えない敵と戦っている24歳。趣味で漫画とプログラミングをやっています。好きなスポーツは卓球。欲しいものはお金。今年の抱負ががんばらないことです。

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